2009年01月04日

アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(ハヤカワepiブック・プラネット)

哀れなるものたち (ハヤカワepiブック・プラネット)
アラスター・グレイ
早川書房
売り上げランキング: 75026

2009年の1冊目にこれほどの傑作を読めたことを神に感謝したい。フランケンシュタインをベースにしたSFファンタジーでありつつ、手記の形式をとり誰が真相を語っているのか分からないメタフィクションの形式で紡がれる。図書館で借りてしまいましたが、早速書店に買いに行って再読したい気持ちを抑えられない。

最初の手記は、アーチボールド・マッキャンドレスという医師が、高名だが孤独に研究を続けるゴドウィン・バクスターと出会い、ベラ・バクスターなる女性に出会うところから始まる。彼女はとある方法で死を免れたが記憶喪失となり一から人生をやり直しているという設定だが、暴れ馬のように周囲の男たちを振り回し続ける。バクスターのラストには本来ベラの役割となる不気味さと優しさを一手に引き受けた謎の人物の悲哀があった。泣けた。

そしてこの手記が終わると、題材にされたベラ・バクスターによる長い手紙があり、さらに全体を通した「批評的歴史的な註」がある。この註は小説上、非常に重要な役割を果たしており真実を陽炎の先にゆらめくものとしている。ベラの不穏な手紙からは先に記された手記がまったくのでたらめであるとされながらも、註は彼女の手紙の内容を裏付けながらも最後に年齢を記すことで手記そのものの信憑性を裏付けるような仕組みになっている。このラストは本当にぞっとしたし、『エンジン・サマー』で回帰するときのような語られることがつながったときの高揚感がありました。

一つ分からなかったのが手記の表紙となる箇所に書かれた訂正で、ジャン・マルタン・シャルコー教授ではなく、(確か)物語に登場しない人物のエッチングであったというところ。モンテスキュー−フゼンザック伯爵なんていたっけ?

2009年01月02日

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
角川グループパブリッシング
売り上げランキング: 239

人んちで麻雀の抜け番に読んだものの、アルコールと眠さで印象が残っていないため、文庫化を機に読み直してみました。一読して感じたのが、デビュー作『太陽の塔』からずいぶん遠くなったな、ということ。あの頃は相手の女性の顔すらろくに見えなかったのに、本作では後頭部を見つめるだけの関係がとうとう一緒に空を飛ぶなんて。

春夏秋冬別に4つの短編が収められており、どの短編にもきちんとカタルシスがあり、徐々に主人公の先輩と彼女が近づいていくのが甘酸っぱい。春は若者に解禁された酒、夏は京都の古本市、秋は誰もが何かしらの思い出を持っている文化祭、そして冬は風邪をめぐって個性の固まりのような人たちを巻き添えに、二人の物語がかわいく甘酸っぱく進んでいくのです。もうこの甘酸っぱい物語を胸の内でふくらませてにやにやするには年を取りすぎたわたしは、と反省することしきりであります。手を握るまでに文庫本一冊をはるかに超えるような紆余曲折を経るなんてまどろっこしいこと、大人にはやってるファンタジーも時間もないんだよ。でも作者にはいつまでもこの甘酸っぱさをキープし続けていただきたいと切に願うばかりであります。

Wikipediaを見てちょっと違和感を覚えたのが本作を含め森見登美彦氏がマジック・リアリズムの作家としてカテゴライズされていること。個人的にマジック・リアリズムというのは文明化された社会から隔絶された組織で発生する未知なる現象ととらえているため、本作での浮遊などはファンタジーとしてとらえたい(もっとも芥川の『河童』もマジック・リアリズムとして紹介されるくらいだから、天狗が出てくる時点でマジック・リアリズム認定していいのかもしれませんが)。『百年の孤独』が世に出たとき西欧ではあまりにも破天荒な物語に驚いたけれども、地元コロンビアや南米では「あるある!」と親しみ深い物語として読まれたということから、実はマジック・リアリズムというのは外部から認定されるべきものなのかもしれません。というわけでわたしは日本人作家の作品にマジック・リアリズムというカテゴライズは合わないんではないか、と思っております。

2008年12月30日

グレッグ・イーガン『TAP』(河出書房新社)

TAP (奇想コレクション) (奇想コレクション)
グレッグ イーガン
河出書房新社
売り上げランキング: 5878

久しくSFから離れていたわたしにも読みやすい短編集で、いろいろな知識を総動員してもさっぱり分からない長編の勢いを期待するとやや方向性がちがうところがあるかも。しかし、イーガンのおもしろさの決定的なポイントである「予想もしていなかった視点」は健在。

「視覚」は脳に銃弾を受けた男が意識を取り戻すと自分の肉体を病室の天井あたりから見ていた、というもの。遙か昔に読んだ吉本隆明の『共同幻想論』でも瀕死の状態で手術を受けた患者がなぜか天井あたりから自分が手術されている様子を眺めていたという症例が報告されており、決まって天井付近に留まるという話があって印象に残っている。本作でも、主人公の視点は屋外に出ても決して天井辺りの高さから離れることはないところが同じでおもしろい。自分を本来の意味で客観視する奇妙さがいい。

どれもおもしろかったけど、とりわけ印象に残るのは他の短編よりも長めの「銀炎」と「TAP」。「銀炎」はウイルスに感染すると爆発的に増えるコラーゲンによって皮膚がどんどん剥がれ落ちるというもの。不謹慎だが患者が隔離されているゲル状のベッドは素敵だと思った。

ガラス張りの密閉された部屋で横になっていた。チューブが酸素や水、電解質、栄養素を男性に送っている。——同時に、抗生物質、解熱剤、免疫抑制剤、鎮痛剤も。ベッドはなく、マットレスもない。患者は透明な高分子ゲルに埋まっていた。ゲルは浮力のある半固体の一種で、床ずれを抑え、かつてこの男性の皮膚だったものから漏れだしてくる血やリンパ液を除去している。

わたしが望んでいた睡眠施設はこれだと思った。抗生物質や解熱剤なんかはいらないから、これに入って息が出来るようになっていたらきっとよく眠れる。もしかすると無重量下でもものすごくよく眠れるのかしら。

「TAP」は脳にインプラントする言語で、現在使われている発語する言語よりもずっと明確に考えていることを伝えられるというもの。TAPをインプラントした詩人が何者かに殺害された謎を追うというミステリ仕掛けの作品。オチはちょっとずっこけたけど、わたしたちが普段使っている言葉の限界性を突破する言語ができるという発想はおもしろい。よく言った言わないで問題になることがありますが、そういう日常のささやかなディスコミュニケーションがいろいろ解消されたら世界の生産性がぐっと上がりそう。わたしたちが普段体験している小説や音楽などを使わない芸術やゲームなどができると作中では言われており、長編だったらその辺りの説明が多くてそれはそれで別のおもしろさがありそう、と思ったことです。他にもホラーというよりはサスペンス寄りの作品もあったりしてバラエティ豊かな短編集。イーガンのちょっと違った面が見られてお得です。

2008年11月16日

リチャード・バーギン『ボルヘスとの対話』(晶文社選書)

ボルヘスとの対話 (1973年) (晶文選書)
柳瀬 尚紀 リチャード バーキン
晶文社
売り上げランキング: 1036592

ボルヘスが70歳を越えてアメリカで講演を行った時に、学生が押しかけてインタビューしたものをまとめたもの。ボルヘスというとラテンアメリカ文学でくくるよりも、あらゆる文学に通じた国籍を感じさせない自由と学問の徒というイメージがある。そしてもちろん本好きに特有の偏狭さもあるんだろうと身構えていたが、本書で学生たちに話を合わせるボルヘスは優しく引っ込み思案でありながら、本当に物語を愛した一人の人間としてインタビューアーや読者に分かりやすい言葉で語る素敵なおじさまでありました。

外部からボルヘスを語るとどうしても複雑な迷路に惑う気持ちとそこに身をゆだねる快楽に焦点を当てられることが多いが、ボルヘス自身が語ると(当然だが)とても自由。難しく言い表そうとして通じづらい専門用語をなるべく排除しているところが、ボルヘスを読んで難しいなと首をひねって本を放り出してしまいそうなわたしの頭にすんなりと入ってくる。トルコ人を描くと嘘っぽくなるけどイタリア人だったらアルゼンチンにいっぱいいるからOKとか、雑誌のページが足りないから短編を一晩でひねり出したとか、神秘と迷宮だけではない等身大のボルヘスに出会える貴重な一冊です。

また、相変わらずラブクラフトが大嫌いで、アルゼンチン人が世界の短編集を編もうとしたときにラブクラフトを選んだ人がいたのでめくじらをたて、

ボルヘス ラブクラフトの非常に不愉快で、かなりいんちきな短編を採りました。ラブクラフトをお読みになったことがありますか。
バーギン いいえ、ありません。
ボルヘス そう、読む理由などありません。

と一刀両断。さらに、

ラブクラフトの短編をとりあげて、世界最高の短編だなどという、それは人をびっくりさせるためにすることです。ラブクラフトが世界で最もすぐれた短編を書いたなどと思う人があるとは考えられませんからね

と追撃。相変わらずよのう、とにたにたしたことでした。というわけで、晶文社が文芸を放棄した今、どこでもいいから再刊してください。

2008年08月23日

フリオ・コルタサル「終わりなき旅」@セルバンテス文化センター

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ずっと気になっていた「フリオ・コルタサル「終わりなき旅」」に行ってきました。場所は奇しくも今月なぜか靖国神社に行ったときと同じ市ヶ谷。かなり道に迷ってたどり着いたセルバンテス文化センターは、純粋にスペイン語の語学教育を行っているところで、1階の書店にも日本語の本は教材以外まったくありません。日本語の本は置いても売れないのかしら。

会場の2階には受付に誰もおらず、つい写真まで撮ってしまいました。10分もあれば全て見られてしまうくらいの広さの会場は、赤と黒に塗り分けられており、コルタサルの言葉と写真が展示されています。旅がテーマとあって、アルゼンチン→パリ→スペイン→イタリア→インド→ニカラグア→アルゼンチンと移動した彼の軌跡をたどることができます。

子供の頃はぷっくりして目がぱっちりで本当にかわいい。それが小学校教員時代になると途端に眉毛もヒゲもごっそり生えてきておっさんとしか形容できなくなってしまい、同一人物とは思えないくらいの変貌。その後パリ(1952〜1958頃)に移住すると、つきあっているアウロラ・ベルナンデスと一緒の写真が多い。ふざけている写真でも目は笑っておらず、まじめそう。インドに行ってもそう。ここでは現地の古い天文台を何枚も撮影しており、白い石を切り出して作られた幾何学的な造形が気に入ったことがうかがえる。

会場の中心にはクッションとヘッドホンがそれぞれ3つ。大写しになったコルタサルとトランペットの写真を見ながらビバップの演奏を聴く。その裏側ではコルタサルが旅に出た時、船から撮影した写真が映像に編集されて流されている。BGMはマーラーの三重奏とシューベルトの五重奏。コルタサルのきまじめな顔にはジャズよりも室内楽の方が似合うような気はする。

いっしょに写っている作家も豪華で、イタロ・カルヴィーノとはピサの斜塔で、バルガス・リョサとはギリシアで、オクタビオ・パスとはインドで、レサマ・リマとはニカラグアで撮影されている。時には家族といっしょに、時には男同士で。メキシコでフェンテスと写っている時だけ、唯一笑っている。実際もこんなに笑わない男だったのだろうか、またはカメラの前では緊張して笑顔が作れなかったのだろうか。

「ぼくにできることと言えば見ることだけだが、見るというのは確かな保証もないのに対象に身を投げ出すことだから、そこに嘘がふくまれることは言うまでもない——『悪魔の涎』」

2008年08月14日

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(NHK出版)

白の闇 新装版
白の闇 新装版
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ジョゼ・サラマーゴ
日本放送出版協会
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フィクションでも風景が見えて手触りを感じられ風の音が聞こえるような小説に、わたしは弱い。それは描写が細かければいいというわけではなく、適度なリズム感や適切な言葉の選び方などにも左右される。しかし何より大切なのは読者であるわたしが知覚できるようなことが漏れなく描かれていることだ。本書では突然伝染性の盲目になった人々が陥るパニックをうまく描いている。中心になるのは皮肉にも眼科の医者と、唯一盲にならなかった妻。二人の周囲には初めて失明した男とその妻、セックスの最中に失明した若い女性や幼い少年などが集まり、同じ病に陥った人々による連帯感が生まれる。

これは小説の時点で映像に近いイメージを紡ぐことに成功しており、映画化されたと聞いてもあまり小説からの飛躍はなさそうだ、と思う。とにかくリーダビリティが高く結構分厚くてもあっという間に読める。また、本を途中でおけなくなるほど次々に降りかかる盲目故の災難と、それに振り回される国家と犠牲になる人々の緊迫感がすごい。ノーベル文学賞作家のSF傑作として記憶力の悪いわたしの脳裏にもきっちり刻み込まれました。

2008年07月28日

ぐるりのこと

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梨木香歩の同名作と前日までまちがえていたのはお約束。鬱になる話なんて書いてたっけかなー? と1、2年前に読んでいるのに中身を覚えていないわたしが悪い。

この映画の一番すばらしかったのは、夫婦が最初に見せるものすごいすれちがいぶり。せっかく旦那にいいことがあったというのに、遅くなって帰ってきたことに対する嫁のいちゃもんがすごい。定型句で正論を述べ立てる嫁はすでにモンスターと化しており、背景で「ドモアリガット、ミスターロボット」と聞こえていたのはわたしだけではあるまい。この場合はミセスか。あれ、ミズって言わないと差別だっけ。こえー、規則こえーと震え上がるわたしを尻目に、旦那の方は「いやあのその、たたないし」なんて平気の平左で返答している。ここのかけあいがすごく良くて、あと30分くらいバリエーションを見たかった。場内もここの反応がよかった。

逆に言うと以降はどんどん散漫になっていったとも言える。特におかあちゃんの話は詰め込みすぎてそれぞれが薄くなっちゃった。壺、なくていいじゃん。主題が「夫婦といえども互いをわかり合えない」という永遠のテーマなんだから、夫婦だけでこってりやってほしかった、というのは贅沢なくらいいい映画だったのですけれども。

2008年07月26日

ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』(扶桑社ミステリー)

ボルヘスと不死のオランウータン (扶桑社ミステリー ウ 31-1) (扶桑社ミステリー ウ 31-1)
ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ
扶桑社
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ボルヘスがミステリの主人公になると聞いたとき、「博識のボルヘスが書斎からずばりずばりと難問を解決していく」か、あの『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』ばりの煙を煙で巻くような「よく分からないけどそれで解決ならよかったですね」になるかのどちらかしかないと思った。前者ならばボルヘスのおもしろさに目覚めたミステリ者たちがこぞって国書の「バベルの図書館」シリーズがざくざく買われちゃうかもしれないな、まずいな、なんてずいぶん遠いところまでそろばんをはじいてみましたが、それは杞憂のようです。どう見ても本書は後者の「よく分からないけどそれで解決ならよかったですね」パターンだからだ。それまで問題の解決口がほとんど見られず盛り上がりらしい盛り上がりはほとんどないといっていいいだろう。

しかし、ボルヘスとクトゥルフという驚異のタッグマッチを成し遂げたところに本書最大の功績を与えるべきだろう。「全日のリングに猪木があがる」「Jリーグでジダンがプレイする」そのくらいこの取り組みにはわくわくできる響きがある。ちなみに本物のボルヘスもクトゥルフ神話には興味を持っていたらしく、代表作「アレフ」はラブクラフトが喜びそうな話。ある男の地下室に「地球上のすべての場所が、混乱することも融け合うこともなく、それぞれの形状をはっきり保ちながら凝集している場所」があるのでほいほい入っていくというもの。

ポーの研究会に集まるボルヘス他の研究者たちがその場で起こった殺人事件に出くわすというのが本書の舞台で、若いときにボルヘスの翻訳を手がけた(余計な改訳をしてこっぴどく嫌われた)初老の文学者による一人称視点の小説という形式をとっている。しかも彼は殺人事件の第一発見者で、当時の状況を「そういえばああだった」「ちがった、実はこうだった」とどんどん証言を変えて警官をむかつかせ、一方ボルヘスは新しい証言にどんどん新解釈を連ねて悦に入っている。この対比がよかったです。死体の置かれた状況が鏡に映って「X」の形だった、いや「W」にも見える、つまり「W」とはポー的にはこういう解釈だったのだよ! と無邪気に戯れるおっさんたちが微笑ましい。

不死のオランウータンもいたねそういえば。ともあれ本書を読む前にちくま文庫の『ボルヘスとわたし』か岩波文庫の『伝奇集』のどちらかでボルヘスに触れておくことをおすすめします。

2008年07月21日

ガルシア=マルケス『エレンディラ』(サンリオ文庫)

エレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)
ガルシア=マルケス
サンリオ
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前に読んだのは2001年12月3日だから、6.5年ぶりに再読。読むきっかけになったのは東大で行われた「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でゲストの桜庭一樹氏が朗読していたところがぐっときたので。桜庭氏の声はほっそりしているけども芯がある感じで、エレンディラはこんな声かもしれないと思うような説得力がありました。

それぞれの短編集が実におもしろく、奇怪で奇天烈な題材でありながら、田舎でしかありえない集団的な妄想にかられるところがすばらしい。都会に限らず現代だとちょっとインターネットで調べれば海から薔薇の匂いがするはずは科学的にありえないし、立派ながたいをした水死体が流れ着くこともありえません。腐っちゃうからね。でも狭い田舎の村社会で育った人ならば多かれ少なかれ都会の常識では考えられないようなふるまいや信仰がはびこっていることを体験したことがあるのではないでしょうか。ただでさえ塩味の付いている漬け物に醤油をかけて食べるとか、未だに土葬だとか、墓石に水をかけるのはご先祖様に失礼だとか、いろいろ勝手な風習がついてまわる。15年前わたしが実家にいた頃には非常識だと思っていたことがいつの間にか常識になっていたりする。そんな外部との差異が風習レベルを超えて「事件」に仕立て上げてしまうのがガルシア=マルケスの真骨頂だと思うのです。直球過ぎるタイトル「大きな翼のある、ひどく年老いた男」のあらすじはこう。羽の生えたおっさんが突然庭に飛んできたのはいいけど、天使にしては元気がなく、神様にしては霊験のかけらも感じられない。そんなおっさんを田舎の共同体はうまいこと住まわせてしまう。人権的にはひどいかもしれないが、受け入れる共同体の葛藤がしっかり出ていてぐいぐい読まされてしまう。「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でも触れられていましたが、田舎に生まれ育った人が一度都会に出ることで、不思議な風習が息づいている地元を地元民でありながら外部の人間として見直す視点を獲得して書かれているのです。

ちなみに、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は筑波のがまの油売りが元ネタ、というのは茨城県出身のわたしの妄想です。

ガルシア=マルケスには『百年の孤独』やこの短編集など何もない田舎を舞台にしたものと、『コレラ時代の愛』や『わが悲しき娼婦たちの思い出』のように比較的都会を舞台に恋愛を題材にしたものとに分かれるような気がしました(ルポルタージュから発展した『予告された殺人の記録』も後者に入るかもしれない)。その間にある『族長の秋』は大統領府という国の中心地でありながら荒廃して田舎の人気のなさも持ち合わせているという、二つの世界観を融合させているんではないかと思った次第。そして訳者あとがきにあるように『エレンディラ』のエピソードが『族長の秋』という長編に連関していくと思うと、春先に種を埋めて水をやったときのような、これからやってくる大きな物語が発芽するのを待つような期待感がわき出てくる。次は『族長の秋』を再読せねばという機運が高まってきました。

2008年07月20日

レーモン・クノー『イカロスの飛行』(ちくま文庫)

イカロスの飛行 (ちくま文庫)
滝田 文彦 レーモン・クノー Raymond Queneau
筑摩書房
売り上げランキング: 600632

ちくま文庫の海外文学品切れぶりにはうんざりしている。その筆頭が本書ともう一つ、ナボコフの『青白い炎』だ(『ナボコフの一ダース』はそれに比べればまし)。マンスフィールドなんかも品切れという名の絶版になって久しいようです。在庫の回転が早く、品切れになるまで時間がかからない現在に出版されてから5年という月日は永久のようでさえあります。この前の『ロリータ』ブームで復刊しておけばよかったのに。

愚痴はこのくらいにしてレーモン・クノーであります。ちくま文庫の高騰もさることながら、『はまむぎ』『青い花』のレアぶりに「とんでもなく難しいブンガクだからこんなに評判が高いにちがいない」と勝手におそれをなしておったのですが、ある時『文体練習』の破天荒ぶり(主に訳が)に出会って、クノーの文章にわたしは笑いを感じられると気づきました。『文体練習』は文字通りあるシチュエーションを文体を変えて書き分けるものですが、清少納言バージョン(20世紀フランス文学なのに!)など小難しそうな文体というものを楽しく理解するに最適な入門書かつ究極の一冊です。

さて、本書は小説といいながら戯曲の形をとっています。とある小説家の文章から逃げ出したイカロスはパリの街に迷い込み、カフェではすっぱな女性LNに出会う。小説家は探偵を差し向けてイカロスをなんとしてでも捕まえたい。この追いかけっこを中心に他の小説家たちも巻き込み大騒動が持ち上がるというミステリ愛好者にもおすすめできる一冊。

なんといっても本書で大切なのはアブサンです。アブサンがどれほどおいしいか、どれほど幸せをもたらすかについて1000ページを費やすよりも、イカロスがカフェでアブサン(作中での表記はアプサント)の飲み方をレクチャーされるところを読むがいい。大胆にもアブサンに直接水を注いだイカロスは酒場の酔客から叱られる。

ボーイがもう一杯アプサントを持って来る。イカロスはグラスの方に手をのばす。

第一の客  やめな、この野郎!(イカロスはあわてて手を引っこおめる)そんなふうに飲むもんじゃない。やって見せてやる。まずさじを、もうアプサントが静かに治まったグラスの上に持って行く、つぎにもう気がついてるだろ、変な形をしたそのさじの上に氷砂糖のかけらを乗せる。それからごくゆっくり水を氷砂糖のかけらの上に注ぐ、とかけらは溶けはじめて一滴一滴豊かな糖化の雨が霊液の中に落ち、それを雲のように曇らせる。それからまた水を注ぐ、とまたポタポタ玉になる、そうやって砂糖が溶けるまで、でも霊液があまり水っぽくならないよう続けるんだ。見てごらん、ほらきみ、どんな具合に調合されてゆくか……途方もない錬金術だ……
イカロス  なんてきれいなんでしょう!

ああうまそう。液体に液体を混ぜて神秘的な霊薬になる瞬間がわたしは大好き。カレーだって元はスパイスという名のなめてもうまくない粉をトマトや水と混ぜるととんでもなくうまいご飯になるでしょう。そういう物質の変化の瞬間をとらえた小説に駄作はありません。ちょっと見つけづらい本ですが、パリの狂騒的で快楽的な空間を楽しめます。そしてちくまはとっとと復刊してください。